介護の現場では、よく「利用者さんの訴え」という言葉が聞かれます。
もう9年前にことになりますが、
特養に就職した頃には「そうかあ、訴えって言うんだ」と、
とりあえずは素直に思ったものですが、
よく考えてみると、日常的にはあまり使いたくない言葉のように感じます。

月並みな方法ですが、「訴え」を辞書で引いてみました。

(1)物事のよしあしの判断をしかるべき機関や人に求める。
判決を請う。告訴や告発をする。
「裁判所に―・える」「奉行所に―・える」
(2)(解決してもらうために)不満や苦痛などを告げる。気持ちを強く述べる。
「空腹を―・える」「悩みを―・える」
(3)(事態の解決のために)強力な手段をもちいる。
「武力に―・える」
(4)相手の心や感覚に強く働きかける。
「その言葉は人の心に―・えるものがあった」「視覚に―・える」

介護現場での用法としては、(2)が近いかな、と思います。
それでも、この「強さ」が何となく気になります。

それだけ「強く」言わなければ、改善されないことが、
そんなに日常的にあっていいものか、というのがそもそもの疑問、違和感なのです。
「訴え」というと、その言葉に相当するだけの特別な要望であり、
切迫感や必死ささえ感じられます。

ただ、実際の介護現場は、そのような状況下に置かれている、
という方が当たっているのかもしれません。
僕も特養で勤務していた頃は、その最前線にいたので、
すごくよく分かる気がします。

介護現場から「訴え」という言葉がなくなる時、
そこには日常生活を支援させて頂くという穏やかな生活の場が
生まれている時なのかもしれませんね。

 

※体調不良で少しご無沙汰していました。

また更新頻度を上げて頑張りますね(^^)/

 

 

先日のケアマネ研修でのこと。

「私」の安心と「あなた」の安心は違うから、
あまりケアプランに使わないように、
と講師の方から助言を受けました。

安心という言葉は、ケアプランにはよく使いがちですし、
その「違い」に関しては、確かに鈍感になりがちなので、
なるほどなあ、と思いました。

ただ、安心、という状態は、
介護をする上で重要な目標の一つだと思うので、
それをケアプランに全く書かないように、というのはどうなんだろう?
という疑問も同時に湧いてきました。

そこで考えたのが、
「私」と「あなた(利用者本人)」の安心が違うなら、
その「違い」にスポットを当てて、理解しようとすればいいのではないか、
ということです。

その「違い」を話していくことで、
本人の本当に望んでいることが、より明確になっていくのでは?と思うのです。
「私」と「あなた」だけで今は考えましたが、
これに「家族」が加わったり、他の専門職が加わる場合もあると思うので、
それぞれが考える「安心」を、まずはテーブルの上に乗せて、
そこから本人はもちろん、関わっている全員が「安心」と感じるための
話し合いをしていきたい、そんなふうに考えました。

最初の助言をより正確に記すなら、

「私」の安心と、「あなた」の安心は違うから、
「共通認識もなく」「勝手に」「安易に」ケアプランに使わないように、

ということになりそうです(^^)。

よく、現場を経験しないで管理職になった人に対して、
「あの人は現場のことが分かっていない」「現場感覚が分からない」
と言うことがあります。

僕は幸いにして、特養の生活相談員になる前は
1年間だけとはいえ、介護職員だったので、
あまり「分かっていない」と言われることはなかったように思います。
(なった後も、欠員補充のために随分現場で仕事をしていたからかもしれません)

では、具体的には、どんなことを現場感覚と言うのだろう、と、
僕は色々と考えてきました。
それをハッキリさせないと、言われ続ける方もたまったものじゃないよな、
と思うので、具体的なところで書いてみます。

往々にして現場感覚とは、現場の大変さの象徴でもあり、
現場以外の人に、「この大変さが分かってたまるか!」とでも言うような、
少々自暴自棄な意味も込められているように感じています。

主に特養での体験の中で、具体的な例を挙げるなら・・・

             ◎         

【夕食後、就寝前のトイレ介助】

職員がぐっと減る時間帯。
僕はトイレの前で利用者さんを待ち受けて、
ひたすらに一人で介助できる方をトイレに誘導していました。

皆さん、トイレに行きたかったり、
また、疲れてくる時間なので、少しでも早く部屋へ連れていって横にしてもらいたい、
という状況です。

訴えの嵐と迫り来る時間の前で
利用者さんの気持ちなど考える余裕もだんだんなくなっていき、
ただ、叫び声ともつかぬ大声と、汗にまみれながら、
いっそ心などなくしてしまった方がラクなのか、と思いながら、
どんどん機械的になっていく自分を見てしまう・・・
そんな自己嫌悪と誰かのせいにしたくなる気分の二律背反。

           ◎

【夜間のオムツ交換】

朝の3時半から50人のオムツ交換&トイレ誘導を、
2人の夜勤で行う状況。
また今日に限って便失禁の方が多く、
全更衣、シーツ交換まで行う方が8人くらい。

利用者さんも寝ているところを起こされて不快なので、
ぶすっとされている方や、怒り出す方も。
「ごめんなさいね。すぐ終わりますからね」と言いながらも、
時計に目をやるともう5時半。

最期の方を終えて、洗濯室で後始末をしてから寮母室へ戻った時には、
すでに5時55分。
6時からは起床介助に入るので、足腰を休める間もなく、
お茶と持ってきていたパンを一気にほお張って、
汗まみれのまま爽やかな朝のために動き出す時の
二度と経験したくないような疲労感・・・。

          ◎

【機械浴の方の入浴介助】

年々、特養では重度化が進み、
機械浴利用の方が増え続けました。
入浴介助の着脱担当となると、2時から5時までは、
延々利用者さんに服を脱いでもらって、抱えてチェアへ移乗。
その間に、前に入っていた方が出てくるので、身体を拭いて、
抱えて車椅子へ移乗、という介助内容。
それを3時間ぶっ通しなので、さすがに腰がやられます。
夏の暑い時期などは、もう汗も出ない、というほどに。

お一人お一人に丁寧に親切に介助を行うものの、
最後の方となってくると、いけないとは思いつつも、あと何人?という感じに。
それで終わった〜と思っていたら、実はもう一人いたりすると、
みんなで大きく肩を落とす・・・なんてことも。

また、いかに早く終えるかがやりがいになってしまったりして、
4時半とかに終わると素晴らしい、という雰囲気も生まれてしまう。

           ◎

と、日頃ほとんど書いてこなかった、
ちょっとブラックな面ではありますが、
特養などの施設経験者なら分かって頂けるのかな、と思います。

介護が重労働だな、と思うときはこんなときで、
肉体の疲労が精神をむしばんでいく時はさらに苦しいな、と思います。
いい介護をしよう!と真面目に頑張るほど苦しくなる時もあるように思います。

その苦しみを「現場感覚」と言ったりしますが、
それにも勝るとも劣らない「楽しみ」もまた「現場感覚」だったりする、
ということは、忘れずにいたいものです。

また、生活相談員の仕事をしてみて思うことは、
相談員には相談員の「現場」がある。
事務員には事務員の「現場」、
施設長には施設長の「現場」がある、ということなんですね。

なので、介護職だけが「現場」というのは、あまり適切ではないなあ、
なんて思ったりします。
あえて言うのなら「介護現場」だな、と、思っています。

みんなそれぞれの現場で頑張っているはずなので・・・、
共通理解を持って、同じ目的に向かって歩めるといいなあ、と
少々きれいごとですが思ってしまいます。

広げすぎるととんでもなくややこしい話になりそうなので、
この困った性格、というのは、ここでは利用者さんに限定させて頂きます。
(というのは、困った家族、困った職員、困った上司・・・などとやっていくと、
今から紹介する対応法では限界があるかな、と思うからなんです。)

例えば、何かにつけて大声を上げて怒る方、
細かいことにいちいちイチャモンをつける方(←この言い方は明らかに悪者扱いですね・笑)、
物という物は、何でも持っていってしまう方、
天皇陛下に頼まれても風呂には入ら〜ん!!と怒る方、などなど。

介護現場では色々と困った方に遭遇し、
業務が円滑に進まない、ということがあります。
(↑この言い方にも抵抗あり、です)

本人というよりは、介護者側がむしろ困っていて、
本人にとっては、僕らが一番自分を困らせる存在なのかもしれない、
なんて思ったりすると、思わず笑えてきたりもします。

そういう場合には・・・、
「全くそういった状況がなくなったらどうか」を考えてみるのが効果的だと思います。

いつも大声を上げる方が、一切声をあげることなく黙ってしまったら・・・、
いちいちイチャモンをつけていた方が、何に対しても「ありがとうね」と手を合わせるようになったら・・・、
物という物を何でも持っていく方が、何かを目の前にしても何の関心も示さなくなったら・・・、
絶対に風呂に入らん!と言っていた方が、妙に静かに素直にお風呂の誘いに応じてくれるようになったら・・・

ちょっと心配じゃありませんか?
前みたいに困らせてよ、って少し思いませんか?

全く逆の状況を想像してみると、
今の姿も何だか魅力的というか、かけがえのないもののように思えてきたりします。

こういうポジティブ思考もあるのだな、と思っています。


 

私事ですが・・・

もうすぐ8ヶ月のうちの息子(遙人)が、
今日、ついにうつぶせの状態から前に進むようになりました!!!(^^)
昼の休憩の時に妻からメールで知らされたので、
帰宅後、合唱の練習に行く前に、ちょっと家に立ち寄って、
その勇姿を目の当たりにしました。

本人はきょとんとしていましたが、
自分の意思で、回転だけじゃなく、前に進むことができる!
これで行きたいと思うところには行けるようになる!!
というわけで、色んな意味で革命的変化(!!!)です。

早速、遠くにあったはずの延長コードやティッシュペーパーが
標的となっています(苦笑)。

さあ、部屋の片付けと整理をやらないといけませんね!(^^)

竹内孝仁氏によれば、
廃用性症候群とは、心身が活動しないために、
あるいは低い活動状況にあるために起こってくる
機能あるいは能力の低下のこと。

言葉は悪いかもしれませんが、ひらたく言うなら
「使わないとダメになるよ」ということで、
平成18年度からの新予防給付もこの点に焦点が当たっています。

同じく竹内氏は、この廃用性症候群について、
精神機能、心肺機能、運動器機能の低下の、
3つの分類を示しています。

興味深いのは精神機能の低下についての考察で、
それは「意欲の低下」ということについて述べられていて、
「平常よく働いている人が、日曜日に家にいると
何もする気が起こらなくなるということに似ている。
日曜日だから何もする気が起こらないのではなくて、
家にいるから何かをする気が起こらないのである。」
との論を展開しています。

竹内氏は、家に訪問して介護をするホームヘルパーの利用よりも、
少し無理してでも外出してデイサービスに行く方が、
よほど効果があがる、と言っていますが、
それは「家にいる」ことの弊害を根拠としているのでしょう。

この「日曜日だから何もする気が起こらないのではなくて、
家にいるから何かをする気が起こらないのである。」という話は、
原因と結果の取り違えを示していますが、
同様に、廃用性症候群の原因と結果を間違って解釈した場合、
あるいは拡大して解釈した場合には、
「衰えた人はちゃんとリハビリをやらなかったのだ」
「あの人はサボったから要介護になってしまったのだ」
という、ちょっと恐ろしい考え方もできてしまいます。

確かに介護予防という方向性は間違っていない。
誰だって要介護状態になんてなりたくない。

しかし、「老い」という人生の時期に至っては、
どうしようもない衰えもあるでしょうし、
自然の成り行きと言える衰えもあると思うのです。

繰り返しになりますが、が誰だってなりたくてなったわけではない「要介護状態」。
それを悪く言うような社会にだけはしたくない。
それを悪く言うようなら、社会全体が「姥捨て山」化してしまいます。

廃用性症候群の基礎知識を携えて
介護予防に取り組むのはもちろん大事。
すべてを仕方ないと自然のせいにしてしまうのは無知のなせる業とも言われかねません。
ただ、それと同じくらいのエネルギーをもってして、
要介護状態になっても安心できる環境づくりが大切だと思うわけなんです。

要介護状態になったら「あきらめ」しか残っていないような社会であってはいけない。
介護の本分は「安心感」を持ってもらうことではなかっただろうか。
利用者さんに「不安」を与えてどうしようというのだろう。
「要介護状態になっても」これまでと同じような豊かな生活が営めるようにしたい。
人間、要介護状態になったとしても、果たせる役目はたくさんあると思います。
そして、それは決して「介護予防」の発想とは矛盾しないと思うのです。

ここまで書いてくる中で、
つまるところ「介護予防」か「あきらめ」かなんて二元論で考えているうちは、
うまく決着のつかない議論なのだということに、今気がつきました。
介護とはそもそも、利用者さんがその方らしく豊かに生きるためにあるものです。
だとするならば、その目的に沿った形で、
その時その時に、一番適した形の予防プランを考えていけばよいわけで、
老いに伴う衰えに従ってその比重が小さくなったりすると考えます。
比重という言葉も適切ではないのかもしれません。
質が変わっていく、と言うイメージです。

そうやって、やがてこの世を旅立つその時まで絶え間なく、
その方らしい生き方を支えていくのが介護なのなかなあ、とぼんやりと考えています。

長い文章になってしまいましたが・・・
読んで頂いてありがとうございました。

 

先日、介護職同士(7人)の勉強会に参加した時のこと。

どんな職員と一緒に働きたいですか?
との質問がありました。

僕はこれまで考えてきたことなどを色々と思い返して、
1.上から見ない人
2.気持ちのよい人
3.大らかな人
という3つを考えました。
自分で言うのもなんですが、「人」では結構苦労もしてきたので(苦笑)、
それなりに突き詰めた答えだろう、との自信がありました。

全員ではありませんでしたが、発表の機会がありました。

「色んなことを知ろうとする人」
「自分と置き換えて考えられる人」
「仕事を楽しめる人」
「人に優しい人」
「いい意味でのサラリーマンになれる人」
「人が好きな人」
「一緒に作っていける人」
「特技のある人」

すごい・・・・・・!!
自分なりには色々考えた結論でもあったため、
なおさらその素晴らしさに圧倒されました。
特に「楽しめる」というのは忘れがちですが、
大切ですよね。

続いて、これからの福祉の仕事、どんな人になら任せられますか?という質問。

僕は真面目、素直、一生懸命というベースに加えて、
介護の仕事は様々な障害のために、生活に困難さを抱えている方と共に歩む仕事であるし、
また、経済的にも困難性がつきまとう仕事であるため、
あれもできない、これもできない、という考え方になりがちだ、と。
だからこそ「こうすればできる!」という可能思考がないと、
明るく乗り切っていけないのではないか、
また、自分自身で目標設定をして、自ら仕事を作っていく人が求められている、
という回答をしました。

その後の他の方の意見。

「ネットワークがある人」
「社会性のある人」
「向上心がある人」
「マンネリ化しない人」
「倫理観のある人」
「資格保有者(事業の展開には欠かせないため)」
「自信を持てる強みのある人」

これまた素晴らしい・・・・・・!!

特にマンネリ化にはビビッときました。
また、資格というのも、時に軽視されがちですが、
確かにこれからの事業運営を考えれば、必要不可欠になってくるものでしょう。
またまた目からウロコでした。

この質問を勉強会に取り入れた方も素晴らしいですが、
皆さんの回答にも感動しました。

みんなで考えることって大事だなあ、と改めて強く気付かされました(^^)。


 

自己紹介の話です。

最近、勉強会などで
初対面の方とお会いする機会が何度かありました。
そうすると、まず自己紹介があったりします。

自己紹介を聞くと、もちろん内容の濃さにもよりますが、
その方のことが自然と入ってきます。
話す内容はもちろんですが、口調とか表情などからも、
人柄が伺えることがあります。

そうすると、その後の意見交換の時にも、
その意見のバックボーン(背景)何も知らないよりは、
多少は正確に理解できるように思うのです。

反対に自分が自己紹介する時も同じで、
自分の話がより正確に理解してもらえるように、
自分の経歴などを話したりします。
でも、それだけでは自分を理解してもらうには不十分だな、
と思うこともあります。

僕自身で言えば30年の人生を経て培ってきた人格や歴史が、
そんなに簡単に理解してもらえるはずがない、と思ったりします。
そして、みんながみんなに理解してもらおう、というのは
欲張りかな、とも思います。
それでも、はじめの一歩、と言う気持ちで、
自己紹介をするという行為を行うわけです。

この簡単には理解してもらえない、ということは誰にでも同じで、
ある意味、全ての人間関係はこの困難さから始まる、とも言えそうです。

このことを振り返ってみると、
人を理解しようとする時には、
やはりその方のお話をじっくりと聞くことが大切だ、
ということが分かってきます。
そうしたお付き合いの積み重ねが、やがて、
その方を理解し、あたたかな人間関係を作ることになるでしょう。

介護の仕事で言えば、生活歴とか生活上の好みなどを、
丹念に聞いて知る必要がある、ということです。
それがその方の理解につながり、その方にとってのよいケアにつながる、
というわけです。

マザーテレサの言葉で「愛」の反対語は「無関心」とありますが、
そう考えると「知る」という営みは「愛」の具体的表現なのかもしれません。


 

「ちょっと待ってね。」

これまた介護現場でよく聞くフレーズ、
ベスト10には入るんじゃないでしょうか。

よくミーティングや勉強会などでも、
「ちょっと待ってね」と言わないようにしましょう、と、
決まることがありましたが、
僕は大丈夫かなあ、と、思ったりしてました。

特養のことなので、僕の勤めていた当時は、
1フロアでショートステイの方も含めると50名からみえます。
そうなると、あらゆる所からいわゆる「訴え」が飛んできて、
僕ら介護職は半ばパニックになります。

いくつかの要望をお聞きして、後で伺います†って、
そのまま忘れて帰ってしまい、次の日にこっぴどく叱られたこともありました。

そんな情けない話はさておき、
よくよく考えてみると、相手が2人以上いたら
「ちょっと待ってね」はなくせないんです。

いやいや、相手が1人でも、例えば自分がトイレに行きたくなったりしたら、
「ちょっと待ってね」なんです。

もっと考えてみると、自分一人でも、
「ちょっと待てよ」と独り言を言う時があります(笑)。

「ちょっと待ってね」はある意味仕方ない。
必然的に起こるものなんだ、というところから話を始めた方がいいんじゃないかなあ、
と僕は思っています。

       *

以前、こんな話を聞いたことがあります。

あるラーメン屋さんが2件並んでオープンしました。
両店とも味には自信があって、評判どおり美味しくて、
連日行列ができていました。

でも、その2週間後くらいには、
片方の店は相変わらず、いや初め以上に繁盛しているにもかかわらず、
もう片方の店は行列どころか閑古鳥が鳴く始末に。

味は両者とも甲乙つけ難いんです。
両方ともおいしい。
ではなぜこうなってしまったのか。

片方の店では並んで待ってくれているお客さんに、一人の店員さんが、
「ごめんなさいね、もうしばらくお待ち頂けますか?」と声をかけ、
その後も何度か並ぶ列の人を気にかけるような視線を送っていたとのこと。

それに対し、もう片方の店では特に何もしなかった。

ただ、それだけの違いだ、というのです。

         *

「ちょっと待ってね」と言われるお年寄りだって、
例えば認知症を持たれている方だったとしても、
これだけたくさんの人数がいるのだから「ちょっと待たなくてはいけない」ことくらい、
分かって下さっているように感じることがあります。

分かってないような方の場合、もともと分からないのではなく、
もう待ち切れない!というくらい余裕がなくなっている、とか、
これまでに嫌な思いをたくさんさせられてきた、信用ならん!という気持ちなんだ、
・・・と考えた方がいいように思うんです。

ここはお年寄りを信じて「少しお待ち頂けますか?○分後(○時)くらいには
伺います」←言葉としては、こんなに丁寧でなくてもいいとは思いますが・・・
と言ってもいいように思います。

お年寄りを信じて発する言葉は、
お年寄りに心地よく響くはずです。
そうすれば、お年寄りも僕らを信じてくれるのではないかなあ、と、
そんなことを考えています。

平等にしなきゃだめよ、の話です。

平等にしなきゃだめだよ、
とは介護現場でよく聞かれる言葉です。

皆さんに同じように、差がつかないように、ということですが、
そもそも、それぞれの人の状態や好みが異なるので、
同じものを受け取ってもうれしい人ばかりではない、
ということになってしまうのではないか、と思っています。

「それぞれ」の「必要」に応じたものを提供するのが、
本当の平等で、その方がみんなうれしいんじゃないか、
ということです。

みんなに同じものを、ということを推し進めると、
悪平等、画一的、といった方向にもなりかねません。

特別扱いはダメ、という声も聞こえてきそうですが、
それなら全員に特別扱いをすればいい、と言った方がいます。
出来る範囲は確かにあるのかもしれませんが、
基本的には僕も大賛成です(^^)。

ただし、生活リハビリ研究所の下山名月さんの言葉には、
僕は大きな衝撃を受けました。

「人のニーズは2つある。
一つはみんなと同じにしてほしい。
もう一つが私だけ特別にしてほしい。」

この両方をきちんと踏まえた上で、
デリケートな配慮が求められそうですよね。

ちなみに介護の話ではありませんが、
男性社員は差をつけたりボロくそに叱ると、
反発心や闘争心をかきたてることができるが、
女性社員には全く通用しない。
褒めて褒めて褒めちぎることが大切である。
ただし、女性社員は絶対に絶対に平等にしないと嫉妬の対象となるのだとか。
極端に言えば、何でもない言葉をかけるにしても、
その回数まで平等というのが鉄則、と言っている本がありました。
(↑あくまで本の内容です、僕の意見じゃないです・苦笑)

こうした見える部分の平等というのは、
結構大切なのかもしれませんね。


 

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Sakakkie's プロフィール

Emi
大学の経済学部在学中、特にやりたい仕事もなかった頃、たまたま何かのきっかけで介護の仕事に出会いました。
具体的には何がきっかけだったのかはよく覚えていないのですが、早速始めた特養のボランティアでの体験の中で、 介護の仕事が自分の目指す方向や人間像にピッタリくるのを感じました。

大学卒業後、特別養護老人ホームの介護職として就職。
その後生活相談員3年、同法人のグループホーム主任介護士4年を経て、 現在は居宅のケアマネジャーとして勤務していて、 今年で介護職9年目になります。
グループホーム在職中に、ケアマネジャーと介護福祉士の資格を取得しました。

将来は自分で介護サービスの会社を設立することを目標としています。

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