鹿児島国際大学の古瀬先生が、「開業介護福祉士の構想」という記事を書いていらっしゃった。
元々は、私のブログによく遊びにいらしてくれる「げんきさん」(介護職員だが日本語教師もされる)が次のような質問を先生に持ちかけたのが始まりだった。
「2010-04-18 10:22:11
介護関係の資格をもって、フリーランスで仕事をしたり、事務所を構えたりすることは法律上できないのでしょうか。
いい活躍の場を求めている方の多くのご意見は「雇われる」ことが前提になっていると思うのですが、
自分が結果を出し、自分で仕事をとっていく、ということが不可能な業界なのでしょうか。」
元々げんきさんも私も「介護の仕事」は遅いデビューで、他業種出身であったので、例えばメールのやり取りをしていても「高齢者介護」の枠に囚われることが少なく、「え?これ介護の話なの?」のような意見交換が多かった。
おそらく施設で当たり前に行われていることを「絶対」と考えている人にきかせると反発されるのかもしれない。
2人のやりとりは「ユニークなもの」が多かった。
そして、開業とは程遠いのだが、「仕事は自分で決める」という姿勢は、げんきさんが例えば、インドネシアの学生相手に日本語を教える(国家試験勉強の先生をされている)というご活躍や、私が、あちこちで「認知症のある方の施設生活に潤滑油を、楽しいレクリエーション援助を」と発信している発表そのものは、介護保険から報酬が出ているわけでもないし、職場から頼まれたものでもないのだが、
どちらも「必要なもの」であると認められ
自分の本来の仕事とは別の世界で
独立して
行っているものだと思う。
先生の記事を読んで、昔のことを思いだしてしまった。
私は本当に多くの人に助けられてここまで歩いてきたんだなあとそんな思いが頭をめぐったのである。
私は平成15年からデイで働き始め、16年に老健にうつった。
現在継続中のブログを定期的に書くようになったのは、平成16年老健入職当初からだった。
1年間は老健の仕事をおぼえるので精一杯で日記も愚痴が多い。が1年経つとだいぶ余裕が出てきた。
平成17年の春ごろにある出版社から「介護現場での出来事をエッセイにまとめてみないか」と話があった時、私はとても迷った。
老健で働き始めて2年目、まだ経験も浅かったし、資格も介護福祉士しか持っていなかった。
介護現場での出来事を書くということは、そこに登場する人間のプライバシー問題にも関わる。
例えば施設長クラスの人間が、「うちの施設はこんなに素晴らしいのよ、こんなに進んでいるのよ」と宣伝を兼ねて現場報告をするのならまだしも、非常勤のぺーぺーが1年にわたって現場の様子をレポートする、という企画だ。
ブログを書いていることはもちろん現場の人には内緒だったし、当時「現場のことをブログに書いてクビになる」というニュースも少ないが実際にあった。
職場で懇意にしている数人の上司には相談をした。
懐かしい話だが、まるで密談のように2駅離れたところにあるファミレスに当時5階の副主任だったAくん(現在は主任)を呼び出し、この相談を持ちかけて、「微力だけれど思ったことを書きたい、介護福祉の現場の意識を変えるお手伝いがしたい」のような夢を話したら、数時間後には「僕は今の介護現場に疑問を持っている。今の介護の仕事っておかしいと思う。何の為のリハビリだ、何の為の介護だ!」と思いが膨らんでしまい、逆に相談を受けるような形で、その密談が終わってしまった(笑)
うちの現場の上司は「独り歩きした私」を遠くから応援してくれていた。
働きながらエッセイを書くというのは実は結構大変なことだった。
今と違って老健ではレク担当という責任のある仕事もさせてもらっていたし、レク援助とは別に介護の仕事も普通の介護職員と同じことをこなしていたから、体力的にもきつかった。
ただ「さて文章を書こう」と思った時に、自分に「専門用語の語彙」が「専門的知識」が全くないことに気付いた。
日記はその日あったことをつらつら並べればいいが、エッセイともなると、自分の経験やものごとに対する意見や感情や感想のようなものを書かなくてはならない。
エッセイ執筆が決まると私は資格を取りに行ったり、本を読みだしたり、勉強を重ねることを始めた。人が読んで「なるほどー」というものを書くために、私は「エッセイを書くこと」に追いたてられるように、勉強を始めたのである(笑)
出来あがった連載エッセイを簡易製本したものを上司に渡すと「うちの神棚に飾る」と言ってくれた認知症フロアの同僚、渡したら「家まで待ち切れず電車の中で読んだ。電車の中で号泣してしまった」とすぐメールをくれた言語聴覚士、
現場では「ただの介護福祉士」だったけれど、勉強したい私を応援してくれる上司が(介護職に留まらず)たくさんいたのだ。
そして、それはブログで「どこかの県のどこかの市のどこかの老健の介護福祉士が書いている日常」ではなく「目の前で起こっているBさんやCさんやDさん」との触れ合いを書いているものだったから、うちの職場の同僚たちは、エッセイに登場する実際の人物を思い浮かべて感情移入をしている風だった。
「構造構成主義ってなんだろう?勉強がしたい」というとこっそり勉強会につれていってくれたリハビリ科の主任。勉強会に行くと介護職は私一人だけであとは全員PTとOTだった。
非常勤の立場でOTの実習生のレク研修を任せてくれたOTの先生、認知症介護に関する研修に出ると伝達講習の時間を作ってくれたPTの先生、伝達講習に参加したのはほとんどがPT,OT,STであり実習生だった。
私はよく「介護職でなくリハビリ職が私を伸ばしてくれた」とブログに書くのだが、おそらく介護職には「独り歩きしている介護福祉士」を育てる余裕はなかったのだと思う。
独り歩きは、入職の初日から始まっていた。
介護福祉士の資格を持ちながら「老健の現場で音楽レクリエーションをやりたい」と面接ではっきりと訴えた。
レクリエーションに理解のある老健だ、とわかっていたので、「普通の介護福祉士ではなく」という前置きを置いて、入職を希望したのである。
折しも、私はとある市のレクリーダー協議会に籍をおくようになり、レク援助の勉強を始めた。
当時、レク援助に燃えに燃えている私に、レクの師匠が、経験の浅い私をある研修会の講師に抜擢してくれた。
やらせてくれると言われると自分の能力も考えず手を挙げてしまう自分だが、今思えば、先生の人選は冒険だったんじゃないかと思う。
その研修会に参加してくれたデイの職員さんが「順子さんが実際にレクをやっているところを見てみたい、レクを見学させて欲しい」と申し出てくれた。
そのことがきっかけとなり私は名刺を作ることになった。
当時、介護の主任でさえ作ってもらっていなかった名刺を、非常勤のぺーぺーの私が作ることになり、私はおどおどと「主任も持っていないのにいいのでしょうか?」とリハビリ科の主任に相談したところ、彼はしっかりと
「必要だから作るんだ、名刺を。どこが悪い」と答えてくれた。
名刺には「介護福祉士」と「認知症ケア専門士」という2つの資格名だけが添えられた。
18年5月に始まったエッセイの連載が19年の3月に終了した時、その出版会社の編集者が私に
「エッセイに書いた現場の声を、全国を回って伝えてみませんか?講演をするんです。」と誘ってくれた。
とんでもない、このおっさん、なにぬかすんだ!と私はまず最初に断って、それでもとても嬉しかったのをおぼえている。
「まだ力不足です。経験も、知識も。でも勉強したいという意欲が湧いてきました。ありがとうございます。」
彼に送った最後のメールだ。
名もない私を、見つけ、ブログを読んで「この人だ!」と思ってくれたという。
彼も私を育ててくれた人間の一人だ。
この後も、情報誌に寄稿をしたし、その寄稿がきっかけで全国大会で講師をするという機会にも恵まれたが、どの団体もどの出版社も「職場名は出さないで」「ブログを書いていることは内緒にして」と我儘を言っても、全て受け入れてくれ、名もない私を100人もの参加者の前で講師として発表する場を与えてくれたのである。
ブログでトランスの仕方がわからないと落ち込んでいると富山県の介護職がメールを送ってくる。
「いい理学療法士がいるんだ!介護職にわかりやすくトランスを教えてくれる!」
私はブログの仲間にも育ててもらうようになった。
介護福祉士として他職種と共通の話がしたい、指をくわえて見ているだけでなくて「同じようにやってみたい」それは現場の最前線で毎日トランスをする人間だから、という素朴な願望からだ。
私は現場では自分がしている活動をひた隠していたけれど、こっそり応援してくれる、理解のある仲間がいて他職種がいて、出版社やレク団体NPO団体の助けがあって、この人たちが「介護福祉士の独り歩き」を後押ししてくれていたのだ。
みんなが「名もない介護福祉士、頑張れ!」と応援してくれた。
もちろん恵まれていたのもあると思う。
老健という他職種がひしめきあう職場で、どうしても介護だけが、その社会的地位も報酬も低く、それをみんなで引っ張り上げてくれた、というのも職場に恵まれたのだろう。
「介護福祉士しか持っていなくて」とひがむ人もいる。 私自身「介護福祉士しか持っていないのにいいのだろうか?」などと何度も何度もためらう日々があった。
でも今は言えるのだ。
いろいろな資格を取っても、それは「勉強の為」だった。
ケアマネをやることも相談援助職に就くことも、私にとっては「経験」を培うための通過点に過ぎない。
ケアマネで入浴介助がなくなっていいわね、と言われる。
相談員になったらちょっと威張れるよね、と耳打ちされる。
何を言ってるの?
私は誇りを持って介護福祉士としての花を咲かせたい。
勿体ないでしょう?現場の介護福祉士が私にぴったりなんだもの。
そんな風に答えてしまうのだ(笑)
JUNKOさんへ
「この人」だと僕も思います。
なんだか自分の始まりを思い出しました。昭和63年、九州の先っちょから遥々飛行機で羽田に着き、逗子に向かうはずが蒲田のほうへいってしまって、1時間くらいで逗子につくはずが、なんと半日かかりました。
ここからスタートしました。まだまだ男性で介護職についていた人は少なく「男性が?」という感じでした。最初のお給料をもらったときも手取り12万もいかなくて家賃を払ったらあとはお酒に消えていってましたが(笑)。でもほんとに毎日が楽しく、このお年よりのことは自分が一番知っているだという、生まれ、小さい頃の話、苦労話、嬉しかったときの話、薬、病気、家族のこと、ベッド周りのこと、コールしたときはだいたい何を求めているのか、などなど、ぜーんぶ「僕が知っている」この人の変りに判断しなくてはならない時のために、と思いながらやっていましたね。だから自分の能力にお金が払われているという感覚ではなく、自分がやりたいことをやっている、それにお給料がでていると。介護の仕事をしながら自分も自立しなくてはならないことは実感としてありましたが、そういう気持ちがはじめにありきで取得した資格というものはほんとに嬉しかったものです。
だから今も続けられているのかもしれません。
その当時の相談員の方が今でも僕の師匠です。とあるGHも管理者をしています。介護の仕事は、一人ではできない。施設というところで組織的にケアを提供していくためには施設のシステムが大事なんだと。だた、現場は集団処遇のスタイルが当たり前のように行なわれていていろんなことを意見したのを覚えています。その時、お年寄りに直接、接するときの「目安」ってのはその個人としての介護職員に委ねられるけれど、その職員はやっぱり集団に影響されてしまうと。その核となる、スタッフをプロデュースする役につくことが、それも良くしていくための近道の一つでもある確信しました。
えらいとく偉くなるとかではなく、良くしていくために権限を使うことができる役職を目指しました。
だた、この考えが正しいかどうかは僕もわかりません。しかし、この仕事が好きなのだろうと、その環境を僕は作っていくことが、携わることが何より必要だと。
又佐さん
心のこもったコメント、ありがとうございます。
昭和63年かぁ。第一子を産んで死にかけた頃だ・・・(爆)
又佐さんのまっすぐな心と現場での尊敬出来る上司、この待遇に挫けることなく育って行かれた経緯が、自分の過去と重なります。
きついけど楽しい、落ち込むけど遣り甲斐がある、そんな毎日だった気がします。
私が「施設入所に戻りたい」と思うのは、やはり過去の現場に恵まれたからでしょう。
今のデイが嫌なのではなく、最初に育ててもらった故郷に帰りたいと思うのかもしれません。(まあ同じ老健には戻りませんが)
>施設というところで組織的にケアを提供していくためには施設のシステムが大事なんだと。だた、現場は集団処遇のスタイルが当たり前のように行なわれていていろんなことを意見したのを覚えています。
同じですね。よく噛みつきましたね。人手が足りないと言う台所事情がわかっていても「40人を2人でトイレ介助なんて人権無視にもほどがある!」と主任に噛みつきました。
>お年寄りに直接、接するときの「目安」ってのはその個人としての介護職員に委ねられるけれど、その職員はやっぱり集団に影響されてしまうと。その核となる、スタッフをプロデュースする役につくことが、それも良くしていくための近道の一つでもある確信しました。
馴れあいになると、「主流派」のすることが「正」になってしまいます。
そこに反発する人が「派閥」を作る。
主張することは悪いとは思いませんが、聴く耳持たなくなるのは危険だと思います。
「前はこんな人じゃなかったのに」と悲しくなることも多々ありました。
デイで働き始めた時の副主任と老健時代の相談員が、私の育ての親でした。
この2人がいなかったら今の私はないかもしれません。
「あんたがこうやって働けるように上にかけあってあげる」
「ダメでもいいから挑戦してみな。駄目だったら次を考えればいい。」
「プロデュースする人」のいない職場は、成長が止まる職場ですね。
>良くしていくために権限を使うことができる役職を目指しました。
いつか見学させて下さい。勉強させて下さい。
垣根は飛び越えるために、存在するのだ(笑)